塵芥拾

ぽっと思いついたことを書いています。

「天気の子」

『天気の子』(2019年)

監督:新海誠

f:id:Golbeekun:20210117214026j:plain

年始にテレビでやっているのを観ました。

興業的には、『君の名は。』には及ばなかったものの評価は高かったみたいですね。

私としては気になる点がありました。それについて少し語れればと思います。

 

 死の匂いについてです。この話、陽菜を救うことを代償として東京が水没したという因果関係で話が終わります。一見重い代償のようですが、水没後の東京の描写はどこか軽いものがあります。レインボーブリッジが沈み、立花冨美も立ち退きを余儀なくされています。しかし誰も死んでいないのです。最後に帆高が警察から逃げるのを援護した圭介も、娘と暮らし綺麗なオフィスで働いています。(警察に目を着けられると娘と暮らすことに支障が出るからと帆高を追い出したのにです。)あまりにも世界が平穏すぎるのです。

 それを考えたとき、もしかしたら帆高が陽菜を助けたことと東京が水没したことは関係がないのかもしれません。その根拠について少し述べていきたいと思います。

 1点目、冨美の話です。帆高が高校を卒業し東京にまたやってきたとき、冨美は東京も江戸時代のころはこれくらい海が陸地まできていたことを語っています。帆高以外の人間はどうやらあくまでも自然現象の一環としてしか捉えていないようです。

 2点目は、帆高が陽菜を救うとき彼はその選択が東京を水没させることになるという代償を意識していないことです。「雨なんてやまなくていい」「いつまでも3人で生活したい」そのような思いで助けています。

 1点目と2点目を鑑みたとき、この物語が帆高の語りで始まることに納得がいきます。東京が水没した世界で帆高が、世界に影響を及ぼしたという誇り、世界から自分の世界(陽菜と自分)を守ったという自負、から物語を構築したと言えないでしょうか。それは冒頭ネカフェで帆高が読んでいた「The Catcher in the Rye」のホールデン・コールフィールドと重なります。ある程度お金に困らない家庭で生まれながらも、社会の欺瞞などに批判的な目を向けつつ、無垢な存在を救いたいと願うホールデン少年に帆高が憧れていたとすれば、世界(大人の世界)に対抗して少女を守ったという物語はまさに「ライ麦畑のつかまえ役」であり、その物語を水没した東京に絡めたのでしょう。

 

陽菜を助けると東京が水没するという流れを帆高は救う瞬間は知らなかったと私は記憶しているのですが、合っているでしょうか,,,,,,。ここが違えば私の解釈は大きく崩れそうですが、、、、、。 

 

「彼らが本気で編むときは、」と呪いのお話

『彼らが本気で編むときは、』(2017年)

監督:荻上直子

主演:生田斗真

f:id:Golbeekun:20200412013626j:plain

 『his』に引き続きLGBTQものですね。ですが今回は(今回もかもしれませんが)LGBTQにはそれほど関係のないお話です。端的に言ってしまうと親の呪いです。

 トモは味覚がおっさんだとしばしば揶揄されます。切り干し大根、しじみの醬油漬け、イカの塩辛等々を好んでいるようだからです。このことについて特に劇中で掘り下げられることはありません。しかしなぜトモはこれらの食べ物が好きなのかと考えたとき、それは食べたことがあるからでしょう。そして母親が夜遅くに酒を呑んで帰ってくる描写が冒頭にあることからも、それらの食べ物は母親も好きな食べ物で、トモは母親と一緒に食べたのでしょう。つまり一人で食べていたコンビニのおにぎりは嫌いだけど、一緒に食べれたこれらの食べ物は好きという可能性を考えられます。

 そう考えたとき、やはり最後にトモは母親のもとに帰っていくことに説明がつきます。ネグレクトを受けていたとしても、どこかに親の影響が残っている,,,,,,これを私は呪いと呼んでいるのです。勿論その影響が良いときもあると思います。しかし当然と思っていたことが親の影響からくるもので世間的には”悪いこと”だったときや親を憎悪しているのにふとした時自分の中に親の影響を感じたときなどは最悪でしょう。

 私は血がつながっているから、親だからという理由で人生に介入されることが苦痛で仕方なかったです。でもそれを伝えたところでたいてい親はこう言います。「あなたを生んで育てたのは誰だと思ってるの」と。そもそも子供を育てるのは親の義務ですし、私は生んでくださいと頼んでもないのに私を勝手に生んで恩人面するのもおかしな話です。このように親を疎ましく思っているのですが、ふとした時親の影響を感じる場面があり、しばしばこの逃れられない影響を呪いだと嘆いています。

 今回は、そんな私が先述のトモの食べ物の好みを聞いたとき、どこかやりきれない悲しみを覚えたという話でした。

フロリダ・プロジェクト 真夏の魔法

 文章というものは書いている時はそれなりに楽しいのですが、いざできたものを見るとあまりのできの悪さにげんなりしてしまいますね。そのせいで投稿頻度がひどいと言い訳しておきます。

『フロリダ・プロジェクト 真夏の魔法』(2017年)

監督:ジョーン・ベイカ

主演:ブルックリン・プリンス

f:id:Golbeekun:20200321235813j:plain

 ウィレム・デフォーの演技が素晴らしいという情報のみで観たのですが、これが素晴らしい作品だったのでぺらぺら話そうと思いました。全編隙のないカット割り、ウィレムを筆頭に素晴らしい演技と褒めるとこばかりでした。特にお風呂で遊ぶ場面は思わず唸ってしまいました。あくまでも子供の目線でしかあの世界を観れない仕掛けが巧みです。(もちろん勘のいい観客は気づきますが、それは所謂「君のような勘のいいガキは嫌いだよ」というやつです。)しかし所々管理人視線、つまり大人目線の場面があります。モーテル内にはいったおじさんを追い出す場面や夜の巡回でヘイリーの部屋から人が出るところを目撃する場面などです。これで話に深みが演出されています。

 ストーリーでいうと映画外の情報がほぼ皆無なのも面白い点です。なぜモーテル暮らしなのか、管理人は自分の家族となにがあったのか、ただ分からないままです。あくまでも子供を中心に登場人物がどう生活しているかを描いています。ヒーローもいなければ悪者もいない映画です。

 今回この映画を観て感じたのは、貧困の原因です。「万引き家族」(恥ずかしながら未見です)で主人公たちがカップ麺を食べる場面に対し、カップ麺より米を炊いた方が安いから貧乏人のリアルな生活を描いてないのではないかという意見があったそうです。その観点からいうとムーニーの母、ヘイリーはまったく節約できていない人です。ですがおそらくこんな人はたくさんいるのでしょう。

 しかしそれが彼等の貧困の原因だと言いたいわけではありません。ともするとこの映画は、最後の結末はヘイリーの自己責任だという見方もあるのかもしれません。本当にそうなのでしょうか。確かに子供の前で汚い言葉を使い過ぎですし、自室で売春行為をするのもどうかとは思います。しかし私がこの映画を観ていた時、ヘイリーは良い母に見えました。子供に対し手を挙げないのは勿論ですが、苛ついている時にムーニーがわがままを言っても八つ当たりせずに優しく接していました。ヘイリーが貧困に向き合う”気力”がなかったそれだけに思われます。

 「貧困に向き合う”気力”を持てよ」「必死に貧困を抜け出そうとしろよ」という批判があると思います。先ほど軽く触れた自己責任にかかわる話です。まるで自分たちがいま貧困ではないのは自分たちの努力のおかげと言いたげな批判です。劇中で懸命に貧困に向き合い脱出する努力をしているアシュリーは全く報われることがありません。現在の社会制度の性質上、貧困層が生み出されてしまっていると言えます。そしてその再生産は強力です。きっとムーニーやスクーティも将来平均年収以下の暮らしを送るでしょう。そんな制度上の欠陥の中で”気力”を失ってしまった人々(無意識に気力を失っているケースもあると思います)に、「貧困は本人の問題。自己責任」ということは論点のすり替えでしかないように思われます。

 この映画、最後の最後でディズニーが登場します。そこにムーニーたちが逃げ込むため物理的に連続していることは分かります。しかし平均以上の人々の世界は、本当にムーニーたちの世界と連続しているのでしょうか。やはり彼女たちにとってMagic Castleおとぎの国でしかないのかもしれませんね。

 最後になりますが、別に貧困層を救わなければならないとか、我々が今普通に生活できていることに感謝しなければならないとか言いたいわけではありません。パラサイトの記事でも書きましたが、ただ貧困というものが確かに存在するということを認識することが大事であり、それを認識させる力が映画にはあるという話です。「フロリダ・プロジェクト」は、ただ中立的な立場で(ヒーローもヴィランもいない話)描くことでそれに成功したのではないでしょうか。

 

 

 

 

1917 命をかけた伝令

『1917 命をかけた伝令』(2020年)

監督:サム・メンデス

主演:ジョージ・マッケイ

f:id:Golbeekun:20200306154745j:plain

 

 「アメリカン・ビューティー」007シリーズで有名なサム・メンデスの作品ということで公開前から期待していた作品でした。そして期待を裏切ることなく良い作品で、久々に劇場で二回も観ました。

 

 

 この映画、監督のサム・メンデスは有名ですが主演やその友人役の俳優はそこまで(日本では)有名な人ではないと思います。しかし随所で大物英国俳優が登場して、映画の雰囲気を支えていました。

 

 

 この作品、最大の特徴はなんといっても超長回し、全編ワンカット(映画を観れば分かりますが、一度明確に場面が切れるので全編ではありませんが)による撮影と言えます。今回はこれを軸にこの映画について話ができればと思います。

 

 まずはワンカット、長回しの利点に絡めながら話したいと思います。この映画のハイライトは、おそらく塹壕の上を走る場面でしょう。懸命に走る姿に心を打たれると思います。映画史において感情を伴う走りは、しばしば長回しで撮られます。悪い意味で話題となってしまった「寝ても覚めても」でも、最後堤防の上を二人が走りますが、そこも長回しです。逆に言えば、今回長回しだからこそ最後の走りが映えたとも言えます。さらに今回もう一つ仕掛けがあります。全編常に主人公を現在進行形で観客は観ています。主人公が困難に直面し倒れるも、文字通り立ち上がり前に進み続ける姿を観続けたが故、より感情移入しやすいつくりになっていると言えます。全編ワンカットは、過去に「バードマン あるいは(無知がもたらす予期せぬ奇跡)」などにも見られますが、ワンカットの特性を活かせているのは今回の作品ではないでしょうか。

 

 

 次に長回しの弱点に絡めながら話したいと思います。ワンカットの制約として、時間操作が不得手、スピード感、迫力が出しにくい、複数視点の映像は不可能というものがあります。つまり登場人物の回想や故郷で待つ人側の話をいれることが難しいと言えます。これは主人公のキャラクターや行動の動機を描くことを難しくしています。似たような主題を扱ったノーラン監督の「ダンケルク」は、登場人物の過去を描くことはありませんでしたが、陸海空の三視点から描くことで戦場表現に深みが生まれていました。この映画がその弱点をどう克服していたのか......。一つ目は写真です。この映画、随所に写真が登場します。ブレイクもそうですし、顔が出てこないドイツ兵の家族の写真も登場します。しかし一連の出来事のあと最後の場面で初めて主人公が写真を取り出します。ここで彼の家族への想いをうかがい知ることができます。二つ目は、トラック内の会話です。この場面ただただ意味のない会話が繰り広げられくつろいだ雰囲気がある一方、主人公はブレイクを亡くした喪失感に苛まれています。最後ブレイクの兄に主人公が伝えますが、ブレイクは常に愉快な話をする人だったようです。このトラック内の会話は愉快な話をしていたブレイクの不在を際立たせるとともに、主人公が使命を全うすることを決意する一つの契機になったと言えます。そして最後がフランス人の女性と赤ちゃんとの邂逅です。ここは分かりやすいところでしたね。故郷にかれの子供がいる可能性などが示唆されていました。

 

 

 

ワンカット、長回しの特性について全然語り切れていませんが、今回はこの辺にしたいと思います。この映画を大雑把に表現すると激熱少年ジャンプ映画とでも言えそうですね。(褒めてます)

 

 

パサライト 半地下の家族

『パラサイト 半地下の家族』(2019年)

監督:ポン・ジュノ

主演:ソン・ガンホ

f:id:Golbeekun:20200216230904j:plain

 昨年の年末の先行上映をやっていたので観ていました。ブログを始める前に観た映画なのでいままでこの映画についてかくことはなかったのですが、アカデミー賞を受賞したということで取り上げることとしました。

 

 

 まず監督のポン・ジュノは、言わずと知れた韓国を代表する監督ですね。「殺人の追憶」「グエムル 漢江の怪物」「母なる証明」「オクジャ」を今まで観たことがありました。「母なる証明」は大好きな作品です。是非観てみてください。また「オクジャ」や「グエムル」はエンターテイメントに昇華しながらも社会的な問題に切り込んだ良作でした。今回の「パラサイト」もその系譜にのった作品と言えそうです。

 

 

 次に主演のソン・ガンホですが、彼は監督のポン・ジュノとこれまで「殺人の追憶」「グエムル」「スノーピアサー」で仕事をともにしています。(スノーピアサーは未見ですが)自分が観た作品として他には、「JSA」「大統領の理髪師」「タクシー運転手 約束は海を越えて」などがあります。少しコミカルで朴訥とした人物を演じることが多い印象です。

 

 

 とWikipediaでも調べられるような情報をだらだらと書いてしまいました。正直韓国社会について詳しくはないので、劇中の半地下の人々と富裕層の問題などについてはよく知りません。映画を観ていて、韓国でもやっぱり富裕層からは貧民の暮らしは隠されてしまっているのだなとか、米国とかそういった”ブランド”名に惹かれる人が多いのだなとか、受験戦争の厳しさを感じる程度でした。

 

 この映画を観ていた時とても強く感じたのが、ヒッチコックの系譜を継ぐ超王道サスペンスだということでした。ヒッチコックの「ロープ」に代表されるようにサスペンスはしばしば”テーブルの下の爆弾”と形容されます。この映画でも実際にテーブルの下に三人が隠れる場面がありました。またそもそも富裕層の日常を主眼とすることもヒッチコックの手法”日常の中にひそむ悪”を感じさせるものでした。(ここでの悪は広義のものです)一家全員が家庭に潜入していること、家庭教師先の娘との恋愛、雇用者へと募っていくヘイト、シェルターに暮らす夫婦などです。いつばれてしまうのか=秩序の喪失を恐れてしまう構図といえます。

 

 ヒッチコックの台頭とともにサスペンス表現が一つの頂点に達したのは1950年代と言われています。この時期のアメリカでは、保守的、画一的、規範順守的な社会と言われ抑圧が行われ、見えないところに追いやられるものが存在しました。まさに”日常の中に潜む悪”があったと言えます。しかし1960年代に入り、次第に公民権運動など抑圧されたものの噴出やベトナム戦争をきっかけにアメリカンニューシネマといった新しい映画の時代が到来します。

 

 

 そして現代、Metoo運動、アラブの春板門店宣言など抑圧されたものが再び噴出や自由を求める声があがろうとする一方、ブレグジットトランプ大統領の台頭など封鎖しようとする流れもあります。そんな中でポン・ジュノ監督は、いまだ光が当たらない韓国の、もっと言うと先進国の貧困層という抑圧され隠された存在に光を当てることでヒッチコック・サスペンスのリバイバルに成功したのではないでしょうか。

 

 最後にまとめなのですが、ヒッチコックは「近代社会において、本当に怖がるということを忘れ、麻痺させた人間に、その能力を取り戻させる力が映画にはある」と述べています。これは怖がることだけでなく、抑圧され隠された人々を認知し共感する能力を失った人間にその能力を取り戻させる力が映画にはあるとも言えないでしょうか。そういった意味で、今回アカデミー賞にノミネートされた映画の中で、巨匠ヒッチコックの流れを汲みつつ現代社会に鋭く切り込んだ本作品は、受賞に値する作品と思います。

 

P.S 身バレするのが嫌なので詳しくは書けませんが、ヒッチコックについては大学の講義を一部参照しています。

 

his

『his』(2020年)

監督:今泉力哉

主演:宮沢氷魚、藤原季節

f:id:Golbeekun:20200204131400j:plain

 数日前に観に行きました。今泉監督は、昨年公開された『愛がなんだ』で知りました。遅いですがそれ以来注目していた監督で、本作品を観ようと思いました。

 

 

 分類するとすればLGBTQ映画となるのでしょうが、幅広い人々に刺さる映画になっていたと思います。シングルファーザーは子育てができないのか、女性が仕事のキャリアと子育てを両立させることは出来るのか、そういった偏見とどう向き合うのかという部分もありました。

 

 迅が「どうせ世界に認められないからと僕も世界に対し心を開いていなかった」という旨の発言をしており、実際自身がゲイであることを隠すことで共同体に所属していました。(会社であったり、村であったり)また渚は「ゲイである自分に子供ができると思っていなかったので、子供ができて嬉しかった」や「子供や妻を持つことで世間から男として認められたと思い嬉しかった」という旨の発言をしており、こちらも共同体への所属を願っており、それはゲイであることを隠すことにより得られるものでした。これは多くの人が抱える問題だと思います。

 

 

 この映画ではそんなある種の諦めを抱えた二人が再び愛を確かめ合う映画である一方、社会にどう心を開き、共同体に帰属していくのかを描いた映画と言えます。

 とこのような内容は公式HPにも書いてありましたが,,,,,,。

 

 

 今泉監督はとても日本的な映画を作る人だとつくづく感じました。特に最後の迅渚玲奈空の四人で遊んでいる場面でそう感じました。静かながら四人の関係性や想いが伝わってくる雄弁な場面でした。また日本的とは関係ないですが印象的な場面として、美里が迅に告白した後、渚がやってきて空を車から出そうとする場面があります。あまり見ない構図でしたが、三人の間の微妙な空気感が伝わってきてよかったです。

 

 

俳優についてですが恥ずかしながら宮沢氷魚さんを初めて拝見したのですが、なんとなくモデル出身の俳優さんの匂いがしました。それでWikipediaで調べたところそうっぽいですね。モデル出身の俳優と演劇出身の俳優は、演技に違いがあると個人的には考えています。誤解を承知で言わせていただくと日本映画にはモデル出身の俳優が合っていると感じています。昨今不倫のせいもあり、モデル出身の東出昌大が大根役者などと叩かれていますが的外れな批判だと思います。このモデル出身の俳優についてはまたいつか語れたらと思います。

 

 

ながながと中身のない感想を述べてきましたが、良い映画でしたので機会があればぜひ。

 

 

シャザム!

久々にとても面白くない映画を観ました。しかしただ面白くないと言うのもあれなので、なぜ面白くないのかつらつら書いていきたいと思います。

 

『シャザム!』(2019年)

監督:デヴィッド・F・サンドバーグ

主演:ザッカリー・リーヴァイ

f:id:Golbeekun:20200130053556j:plain

 あらすじは、詳細なものがWikipediaにあるのでそちらを参照してください。

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B7%E3%83%A3%E3%82%B6%E3%83%A0!_(%E6%98%A0%E7%94%BB)

 

1.コメディシーンが面白くない

 マーベル系の映画はポップなコメディ調であるのに対し、DCエクステンデッド・ユニバースは、ダークでシリアスな作風が特徴と言えました。しかしMCUの大成功に対しDCシリーズはイマイチでした。そんなDCが盛り返すためコメディ調に路線変更した作品の一つが『シャザム!』と言われています。(本当かどうかはわかりません笑)

そんな作品ですが、コメディシーンは「キックアス」シリーズの焼き直しのようなもので、ヒーロー弄り系や主人公の空回り的なものに終始していました。「アイアンマン」などの掛け合い的な面白さはなかったように感じました。コメディに深みが足りないの一言に尽きます。

 

2.主人公の戦う動機が分からない

 主人公は本当の母親を探すためしばしば里親の家を逃亡する問題児でした。劇中の里親に対して偽の家族であると吐き捨て、食事前の円陣にも参加していませんでした。しかし生んでくれた母に会った際に自分が捨てられたこと、必要とされていないことを知ります。その後囚われた兄妹を救うため戦いに身を投じていきます。

 主人公の変わり身のはやさに驚きを隠せません。あれだけ偽物と言っていたのに生んでくれた母親に捨てられた瞬間に里親のために.....。家を飛び出したときに意味深に里親が後を追いかけていました。あれはただ家を子供たちだけにするための処置なのでしょうか。生みの母親に捨てられた後に優しい言葉を里親がかけてあげることで「本当の」家族になるという一場面を入れるだけでも、戦う動機が分かりやすくなるはずです。

 

以上の二点が主なものと言えます。主に話に関する指摘でしたね。映像としては特に斬新なカットや印象に残るカットもなく、やはりこちらも面白くありませんでした。

 

 

とひたすら悪いところを述べたのですが、以下に申し訳程度にいいところを挙げていきます。

1.新しい家族像

 上で家族への思い入れの描写が甘いと指摘しましたが、その家族構成はまさに人種のサラダボウル、アジア系黒人白人ヒスパニック様々です。また「家族」だけど血がつながっていないです。従来のアメコミと言えばゴリゴリに白人男性だらけでしたが、近年その風潮が崩れつつありました。(「ブラックパンサー」「キャプテンマーベル」など)そんな風潮の中で、新しい家族像を提示したこの作品は一つ進化した作品といえます。ヒーローの力を兄妹に与えるところがとても示唆的です。奇しくも同じ2019年公開の「スターウォーズⅨ スカイウォーカーの夜明け」でも、最後に血のつながりのないレイがスカイウォーカーを名乗る=血の繋がりのない新しい家族の誕生で話が終わります。(とてもざっくりとした要約ですのであしからず)ヴィラン、ヒーローともに生みの親から拒絶されるなか、全てを破壊しようとするヴィランと新しい家族を見つけ共に世界を救うことを選択するヒーローという構図は、「輪るピングドラム」に似た構図でもありました。そろそろ血の繋がりの有無、宗教や国、性別の違いを乗り越えた新しい家族(共同体)が実現するといいですね。

 

2.大いなる力には大いなる責任が伴うを強調しない

 スーパーマンバットマン、アイアンマン、スパイダーマンなど基本的にヒーローは己がもつ力の危うさを自覚することでスーパーヒーローへと成長していきます。一方本作品は新しい繋がり=家族を得ることでスーパーヒーローへと変貌します。この部分が新しかったと感じています。またこれにより安易に男女の愛に逃げることを防げていました。

 

 以上二点が新しい要素で評価に値すると考えています。しかし新しい家族を獲得する行程の描写が甘すぎるがゆえに、面白くない作品となってしまったのではないでしょうか。アメコミ映画はひと昔前は映画の中では二流的な扱いでしたが、昨今メインストリームになりつつあります。「ジョーカー」がヴェネツィアで賞を取るなどより地位が上がっています。(ジョーカーについては思うところがありますが....)アメコミをなんとなく敬遠している方もこれを機会になにか観てもいいかもしれませんね。(シャザム!はお勧めしません)