塵芥拾

ぽっと思いついたことを書いています。

フロリダ・プロジェクト 真夏の魔法

 文章というものは書いている時はそれなりに楽しいのですが、いざできたものを見るとあまりのできの悪さにげんなりしてしまいますね。そのせいで投稿頻度がひどいと言い訳しておきます。

『フロリダ・プロジェクト 真夏の魔法』(2017年)

監督:ジョーン・ベイカ

主演:ブルックリン・プリンス

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 ウィレム・デフォーの演技が素晴らしいという情報のみで観たのですが、これが素晴らしい作品だったのでぺらぺら話そうと思いました。全編隙のないカット割り、ウィレムを筆頭に素晴らしい演技と褒めるとこばかりでした。特にお風呂で遊ぶ場面は思わず唸ってしまいました。あくまでも子供の目線でしかあの世界を観れない仕掛けが巧みです。(もちろん勘のいい観客は気づきますが、それは所謂「君のような勘のいいガキは嫌いだよ」というやつです。)しかし所々管理人視線、つまり大人目線の場面があります。モーテル内にはいったおじさんを追い出す場面や夜の巡回でヘイリーの部屋から人が出るところを目撃する場面などです。これで話に深みが演出されています。

 ストーリーでいうと映画外の情報がほぼ皆無なのも面白い点です。なぜモーテル暮らしなのか、管理人は自分の家族となにがあったのか、ただ分からないままです。あくまでも子供を中心に登場人物がどう生活しているかを描いています。ヒーローもいなければ悪者もいない映画です。

 今回この映画を観て感じたのは、貧困の原因です。「万引き家族」(恥ずかしながら未見です)で主人公たちがカップ麺を食べる場面に対し、カップ麺より米を炊いた方が安いから貧乏人のリアルな生活を描いてないのではないかという意見があったそうです。その観点からいうとムーニーの母、ヘイリーはまったく節約できていない人です。ですがおそらくこんな人はたくさんいるのでしょう。

 しかしそれが彼等の貧困の原因だと言いたいわけではありません。ともするとこの映画は、最後の結末はヘイリーの自己責任だという見方もあるのかもしれません。本当にそうなのでしょうか。確かに子供の前で汚い言葉を使い過ぎですし、自室で売春行為をするのもどうかとは思います。しかし私がこの映画を観ていた時、ヘイリーは良い母に見えました。子供に対し手を挙げないのは勿論ですが、苛ついている時にムーニーがわがままを言っても八つ当たりせずに優しく接していました。ヘイリーが貧困に向き合う”気力”がなかったそれだけに思われます。

 「貧困に向き合う”気力”を持てよ」「必死に貧困を抜け出そうとしろよ」という批判があると思います。先ほど軽く触れた自己責任にかかわる話です。まるで自分たちがいま貧困ではないのは自分たちの努力のおかげと言いたげな批判です。劇中で懸命に貧困に向き合い脱出する努力をしているアシュリーは全く報われることがありません。現在の社会制度の性質上、貧困層が生み出されてしまっていると言えます。そしてその再生産は強力です。きっとムーニーやスクーティも将来平均年収以下の暮らしを送るでしょう。そんな制度上の欠陥の中で”気力”を失ってしまった人々(無意識に気力を失っているケースもあると思います)に、「貧困は本人の問題。自己責任」ということは論点のすり替えでしかないように思われます。

 この映画、最後の最後でディズニーが登場します。そこにムーニーたちが逃げ込むため物理的に連続していることは分かります。しかし平均以上の人々の世界は、本当にムーニーたちの世界と連続しているのでしょうか。やはり彼女たちにとってMagic Castleおとぎの国でしかないのかもしれませんね。

 最後になりますが、別に貧困層を救わなければならないとか、我々が今普通に生活できていることに感謝しなければならないとか言いたいわけではありません。パラサイトの記事でも書きましたが、ただ貧困というものが確かに存在するということを認識することが大事であり、それを認識させる力が映画にはあるという話です。「フロリダ・プロジェクト」は、ただ中立的な立場で(ヒーローもヴィランもいない話)描くことでそれに成功したのではないでしょうか。